認められない苦しみ ー 完璧を求められる子ども時代
私の体調に対して初めて親が関心を示したことが、食事制限のきっかけだった。
「私の摂食障害は、小学2年生の頃から始まっていたと思います。学校や習い事を頑張ってみても共感してもらえない、寄り添ってもらえない寂しさを感じていた頃、意図せず体重が減ったときに初めて親が関心を示してくれました。それが、体重に関心を持つきっかけとなっていったんだと思います」
母親は完璧主義的な価値観の持ち主だった。父は多忙で、かつ私が小学生になるまでは1、2年ごとに引っ越しもあり、母は結婚後、身近に頼れる人がいない中、ほぼワンオペで3人の子どもの面倒をみていた。
「頼れるものが少ない中でも、子どもには自立できるだけの教育をきちんとしなければ、という思いがあったんだと思います。私の持っている可能性を最大限に引き出したい、という親としての強い願いから、教育に関しては厳しい面がありました」
「テストは基本いつも100点。音楽で96点を取ったときも『音楽はダメなんだね』と言われました」
小学4年生のとき、夏休みの受験塾講習で初めて受験算数に触れ、苦戦した。
「講習初日の帰り道、『天狗の鼻もこれで折れたね』という言葉を投げかけられました。一生懸命頑張っていることを認めてもらえない悲しさを感じました。必死に追いつこうとして、最後のテストで1番を取りましたが、それも『できて当たり前』のように受け止められ、よく頑張ったねと一緒に喜んでもらえた記憶はありません」
「公文では県内で上位10位以内に入ったこともありましたが『こんな田舎で上位になれても、都会では大したことない』と言われ続けました」
努力が認められない寂しさと、常に高い水準を保ち続けなければならない重圧を抱えていた小学生の私は、次第に体重が減り始めた。
「4年生の後半頃には給食のほとんどを残すようになり、体調が悪いと言って迎えにきてもらったり、休む日も増えていきました。行きなさいと言われた日には1人泣きながら登校するようになっていました。そんな中、5年生の春に母に『学校に行かなくてもいいよ』と言われた時のほっとした感覚は、今でも鮮明に覚えています」
深まる孤独 ー 入院生活と失われた居場所
小学5年生での入院は、重要な転機となった。学校を休み始めた後も食べることを拒否し続け、中心静脈栄養を必要とするまで体重が減少、全身の状態が悪化していた。しかし、病院での管理栄養士との出会いが、食べ始めることや栄養に関する知識を得る重要な機会となった。
「管理栄養士さんに基礎代謝のことを教えてもらい、何もしていなくてもこれだけは食べても大丈夫だと分かりました。安心して食べられるように、普通牛乳の代わりにスキムミルクや、砂糖の代わりに低カロリーの甘味料などを紹介してもらったり、十分に食べられなくてもビタミン・ミネラルはとろうと、でも飲むのが怖くないように比較的低カロリーでそれらを補給できる栄養補助飲料なども教えてもらい試させてくれ、少しずつ食べられるようになりました」
しかし、6畳ほどの個室で母と過ごす日々は、互いにストレスを抱える苦しい時間だった。
「太ることへの怖さもあって、体を動かさないといけないという強迫感で動き回る私を見ていなければならない母も、きっと辛かったのだと思います。でも『あなたのせいで私の具合が悪くなる』と言われたときは理解してもらえないことや、罪悪感で悲しかったです」
退院後、学校には戻れず、かつての友人関係も途切れていった。
「以前は一緒に遊んでいた友達と、偶然会ったとき、何と言ったらいいのかお互いわからなくて、話すこともできなくなってしまいました」
理解者との出会い ー 新しい環境での再出発
転機となったのは、フリースクールでの経験だった。週2回のバスケットボールとバドミントンの活動で、新しい居場所を見つけた。
「下手でも、少しずつ上達するのが楽しかったし、小さな進歩をすごく喜んでくれたのが嬉しかったです。それぞれ事情は異なるものの、学校に行けなくなったという共通点をもつ新たな同年代との繋がりもできたり、通信制高校という選択を知ることもできました」
大学進学は、さらなる転換点となった。
「東京での一人暮らしは、食事を自分でコントロールできるようになり、無理やり食べなくていい、余分な食べ物を家に置かなくていい。自分でコントロールできる環境になって、少し楽になりました」
特に大きな変化をもたらしたのは、入学してすぐの4月に出会った4年生の先輩との出会いだった。
「『さゆりって摂食障害でしょ?私も摂食障害なんだ』と話してくれました。この言葉を聞いたとき、初めて自分だけじゃないんだと感じることができました。症状は人それぞれ違くても『あるあるだよね』と共感し合える。そんな関係が持てたことは、とても大きな救いでした」
自分の価値を見出す ー 社会人としての成長
就職は、新たな発見の連続だった。
「ちょっとしたことでも『すごいね』『ありがとう』と言ってもらえて。最初は戸惑いましたが、自分が役に立っているんだと実感できました。過度な競争や評価にさらされない環境であることもあり、自分らしくいても大丈夫、ありのままの自分でいても受け入れてもらえるんだと感じられ、少しずつ自分自身を受け入れられるようになっていったと思います」
マラソンとの出会いは、食事への不安を和らげる大きな助けとなった。
「時々過食してしまうことがあったのですが、『今なら走ったら消費できる』と考えられるようになりました。多少食べ過ぎても走れば大丈夫という気持ちの余裕が出てきて、ちょっとくらい食べすぎてしまっても大丈夫と思えるようになりました。また、そう思えるようになったことで、食事由来のストレスが減り、食べすぎてしまう頻度も少しずつ減っていきました。さらに『マラソンをしているから細い』という周囲の理解は、隠していたかった私にとってはカモフラージュにもなってくれました」
結婚後は、夫の無条件の受容が大きな支えとなった。
「母とは違って『そんなのではダメ』といった否定的な言葉を言わないので安心感があります。とくに食事面での夫の関わり方は、食事に対する不安感を軽減し、私の症状回復を後押ししてくれました。摂食障害について過度に心配したり調べたりするのではなく、外食時には『どこで食べたい?』と私に選択権をくれたり、食べてみたいけど全部食べるのはちょっとという時に一口だけくれたり半分こしてくれたり。これは私にとって、どんな味がするのか食べてみたいという気持ちを我慢せず、かつ食べてしまうことの恐怖感も軽減できる方法でした。我慢しなくていいので、反動で食べすぎてしまう頻度もさらに減りました。そんな自然な関わり方が、とても心強かったんです」
ありのままの自分を受け入れる ー 自分らしい回復への気づき
現在も、日常生活には摂食障害の影響が残っている。
「毎日体重を測り、カロリー計算をし、食事パターンが決まっています。肉の脂身は全部取り除くなど、食べられないものもあります」
しかし、これらは慣れてしまったことで自然にできることなので苦しみではなく、自分が安心していられるためのものとして受け入れている。
「それが今の私の『普通』です。精神的、身体的に苦しむことは減りました。この2年間は、ジムでのトレーニングを始め、食べても大丈夫な量が増え、食事に対する制限もより緩やかになりました」
一方で、社会生活の中では皆に合わせるべきか自分にとっての安心感を優先するかで悩むこともある。
「たとえば会社でランチ会があり、皆で注文するのが日替わり弁当といったとき。皆に合わせた方がいいのかもしれないけど、メニューがわからないので、食べられないものだったらどうしようと思ってしまい、自分だけお弁当を持参しています。でも、それを受け入れてくれる環境があることが、とても恵まれていると感じています」
あなたらしい回復を ー これから摂食障害と向き合う人へ
現在、私はピアサポーターとしても活動している。
「かつての私は『話して何の意味がある』と思っていました。でも、同じ経験をした人と話すことで、新しい感覚が生まれるんです。隠し持っていた時とは全く違う感覚があります」
「無理に治そうとする必要はないと思っています。私の場合、大学入学、就職、結婚と、環境が変わるごとに少しずつ良くなってきました。ダメな時は戻ればいい。小さな一歩でも、勇気を出してチャレンジしてほしいです」
子どもの頃は、家族のルールが絶対的なものに思えた。でも外の世界に出ると、実はそうでないことも多い。
「自分では大したことないと思っていたことが、実は素晴らしい才能だったり。気にしていたことが、そんなに気にすることではなかったり。新しい環境で、そういう発見がたくさんありました」
「同じ経験をした人と話をしてみることで、新しい扉が開くかもしれません。一人で抱え込まないでほしい」
完璧な回復を目指すのではなく、その時々の自分に合った付き合い方を見つけていく。それが、私が見つけた「自分らしい」回復の形だと思う。
さゆりさんとお話してみたい方へ
さゆりさんは摂食障害ピアサポート Ally Meの登録ピアサポーターとしても活動中です。
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