OBOG訪問室 あやえさん
OB・OG訪問室

「治らない病気」だと思っていた —— 16年間の摂食障害を克服した母の記録

  • 元当事者
  • #妊娠出産
  • #家族関係
  • #拒食
  • #結婚・パートナーシップ
  • #過食
知人からの言葉をきっかけに制限型拒食となり、16年間摂食障害と向き合い続けたあやえさん。結婚・出産後も症状が続くも、ありのままの自分を受け入れてくれる人との出会いやサポートを通じて回復されました。一時は「摂食障害と一生付き合っていかないといけないのでは」と思っていた彼女が、現在に至るまでの過程についてお話を伺いました。
この記事に紹介されている人のプロフィール
川崎あやえ・30代

20歳から16年間、制限型拒食と過食嘔吐を経験。結婚・出産後も症状は続き、シングルマザーとして子どもを育てながら福祉の職場で働き始めました。再婚後、克服サポートや理解者との出会いを通じて回復し、現在は子育てや仕事と並行して、ピアサポート活動にも取り組まれています。

「こんな私を好きになってくれたのに申し訳ない」そんな思いからダイエットへ

—— 摂食障害になったきっかけを教えてください。

最初のきっかけは、大学生の時にできた彼氏の友達が私のことを見て「お前の彼女って結構ぽっちゃりだよね」って言ったことでした。それを当時の彼氏にちょっと言いにくそうに言われた時、「ダイエットしないといけない。せっかくこんな私なんかと付き合ってくれる彼氏がいるのに、その人に恥ずかしい思いをさせてしまった」と感じたのを覚えています。

今振り返ると、「そんなこと言う人はほっといて良いんじゃない?」という気持ちを持つこともできたはずなのに、当時の私は自分に存在価値がないと思っていたので、「太っている私だと彼氏に恥をかかせてしまうからダイエットしないと」って思ったんです。「痩せなければ私には価値がない」そう思い込んで、食べないダイエットを徹底しました。それが拒食のスタートでした。

「頑張れる子だけが愛される」という気持ち

—— なぜそこまで自分を追い詰めてしまったのでしょうか?

幼少期、両親の愛情を上手く受け取れていなかったことが大きかったと思います。親からは愛情を注がれていたんですが、今振り返ると「良い成績を取った時」「期待に応えられた時」にだけ愛されているような、条件付きの愛情だと感じていたんです。進学校に通っていて、常に良い成績を保つことが当たり前の環境でした。成績が下がってしまった時に両親からは「まだ頑張れるよ」と言われたんですが、私が本当に聞きたかったのは「成績が下がっても、あなたはあなたのままで良いんだよ」という言葉だったのかなと思います。

当時の私は、頑張れば頑張っただけ報われるし、頑張れるのがいい子で、偉い人間なんだと思い込んでいました。中学受験でレベルの高い学校に入ったこともあって、周りもそういう価値観が当たり前の環境だったんです。難関大学に入って両親を喜ばせること、それがずっと潜在意識として自分の中にありました。それが自分の生きる道だと信じて生きていたように思います。

でも、大学受験で思うような結果が出せずに、自分のことがますます嫌いになりました。そんな時に大学でできた彼氏から間接的に「太っている」と言われた時、「こんなダメな私を好きになってくれた人に、恥ずかしい思いをさせてはいけない」という気持ちからダイエットに走ったんです。

摂食障害への家族の向き合い方

—— 拒食から過食嘔吐に移行していったとのことですが、ご家族はこの状況を知っていたのでしょうか?

はい、知っていました。大学も実家から通っていたので、症状を隠すことが難しかったんです。

1つ覚えているのが、ある時母と出かける用事があって。前々から計画していて、私も楽しみにしていたんですが、出かける当日に体重が100グラムとか200グラム増えていたらパニックになってしまったんです。泣きながら「今日は行けないかもしれない」って言ったら少し口論になって、結局母が1人で出かけたことがありました。

他の家族からも「なんでその1口が食べられないの」という言葉を度々言われたりもしたんですが、それも今思うと当たり前の反応だったと思います。母は数年後にはもう「吐いても良いから食べよう」と言ってご飯に連れて行ってくれたりもしました。当時は自分でも恥ずかしいし、情けないし、でも止められないしっていう感じで、どんどん追い詰められていきました。

結婚と福祉の仕事との出会い

摂食障害の症状は続いていたんですが、環境を変えるために大学時代に一人暮らしを始めたんです。その後、過食の症状が進むにつれて生きているのがどんどん辛くなってしまって、当時付き合っていた人に「結婚してほしい」と突然言いました。自分のために生きることができなくなっていた私にとって、妻として、誰かのために生きることで何かが変わるかもしれないと思ったんです。それが過食嘔吐とともに生き続けられる唯一の方法のような気がしました。新しく家族を持つことで生きる意味を見つけられるかもしれないと思ったんです。

—— 当時、症状にはどのように向き合われていたんですか?

もちろん、そんな気持ちで結婚してうまくいくはずもないし、症状が治まるはずもありませんでした。過食嘔吐の症状はひどくなり、大学は休学することになりました。アルバイトをしながら過食嘔吐費を稼ぐような生活でした。

そんな中で、この時期に福祉の仕事に出会ったことが、私にとって大きな意味を持つことになります。それまでずっと勉強とか学歴とか、そういう価値観の中で生きていたんですが、心の病気とか体の障害を持ちながら生きている人たちに、その時に目を向けられたんです。自分は、傲慢で、そういう人たちとは生きる世界が違うと思っていたけれど、それは違った。自分と同じ社会にそういう人たちはいるし、むしろ誰もが同じように弱さを抱えながら生きていると知るきっかけになりました。福祉の世界を初めて知って、そこでやりがいや喜びを感じる出来事を沢山経験しました。

福祉の道に進むため、元の大学を辞めて通信制の福祉大学に編入もしました。肩書きを手放すという私の決意だったのかもしれません。

妊娠・出産と症状の悪化

お母さんになったら摂食障害が治るかもしれないという期待もあって妊娠したんですが、健診ごとに体重を測るのが憂鬱になったり、健診の日が近づくにつれて過食嘔吐が悪化したり、本当に自分のことしか考えていない妊婦生活を送りました。出産前日まで過食嘔吐もしていました。元夫は妊娠後期に実家に帰ってしまって、ほぼ別居状態でした。娘が生まれた最初のうちは顔も出しに来ていたんですが、またすぐに会わなくなりました。私は母に育児を助けてもらいながら、でも夫婦関係がそんな風になっているとは、はっきり伝えられずにいました。

娘を出産した1年後に大学を卒業しました。娘を育てながら過食嘔吐をしては、自責の念に耐えきれず孤独で泣く、なのにまた同じことの繰り返し、そういう毎日が何年も続きました。娘に対しては「お願いだから、私のようにだけはならないでね」と思っていました。

その後、元夫との間に2人目の子どもを出産したんですが、夫婦関係は改善されることはなかったです。その子の1歳の誕生日には、もう元夫は家にいませんでした。

——シングルマザーとして子育てをされる中で、摂食障害とはどう向き合っていましたか?

2人の子どもを一人で育てることになってからは、働いて生活を繋ぐことに必死でした。長女と長男については、母としてしてあげられることが、今思うともっともっとあったはずだと思います。当時、「子どもたちにこんな母親を持たせてしまって申し訳ない」「私のもとに生まれなかったら、もっと幸せだったのに」という気持ちがずっとありました。成果を出さないとと思って仕事に追われつつ、ご飯も思うように食べられなくて、ずっとイライラしていました。子供たちの話もちゃんと聞けていませんでした。

——当時、どんなサポートがあったら良かったと思いますか?

元当事者で気持ちをしっかり分かってくれる、例えば同じように母であるとか、自分の気持ちをリアルに分かってくれる、かつ継続的にしっかりサポートできるような人に出会いたかったです。

「過食をしても別に大丈夫だし、それでダメな母親ではない。あなたはあなたのままで大丈夫。生きていてもいい存在だよ」って誰かに言ってほしかった。自己肯定感がどん底まで落ちて、存在価値もないって思い込んでいたので、ある程度信頼関係を構築しながら、そういった言葉を継続的に、何度も何度もかけてもらえることがあったら、克服に向えていた道はあったかもしれません。

再婚相手との出会い

心身も限界に来ていた頃、今の夫と出会いました。夫は、私の過去のことや子供のことを自分から訊いたりはしませんでした。それでも、なんとなくいつも時間や場所を気にかけてくれていました。たわいもない話がいつも楽しくて、心からの笑顔が私に戻り始めたんです。でも、摂食障害であることと、二児のシングルマザーであることを、どういうふうに私から伝えようかなとずっと悩んでもいました。これを言ったら、もしかしたら関係が終わってしまうかもしれないと思って、なかなか言えなくて。でもやっぱりあるタイミングでは言わないとと思って、2人のシングルマザーであることと摂食障害であることをしっかり打ち明けました。

子供のことについては「知ってたよ、全然。話してくれるタイミングを待っていたから敢えて訊かなかった。伝えてくれて嬉しいよ」と言ってくれて。摂食障害については、「辛いよなぁ。自分はそれで気持ちが変わることはないけど、苦しいんだろうなぁって思う」って、そういう感想を言ってくれました。

——再婚によって子育てはどう変わりましたか?

今の夫は子供たちのことを本当に真剣に考えてくれる人です。

例えば、息子がまだ小さくて少し手を出したりっていうことがあった時、それまで私がなかなか叱れていなかったのを、「それはいけない」ときちんと叱ってくれたんです。私一人では難しかった子育ての場面で、夫がパパとして責任を持って向き合ってくれることで、「私は1人じゃないんだ」って思えることが増えていきました。子供たちも「パパって呼んでいい?」とすぐに言ったりして、夫も子供も、みんなで一緒に家族になろうとしてくれていったんです。

家族みんなで本屋に行って、それから家に帰る。そんなたわいもない時間を過ごしているうちに、「これが普通の子育てなんだなぁ」と思い始めました。一人で抱え込まずに済むようになったことで、子育て自体が楽しいものに変わっていったんです。同時に、子供達への愛情が、過去の私になかったわけではなかったこと。それ自体は変わらず、同じようにあったけれど、想いを表現する余裕だけがなかった、ということにもはっきり気付けました。過ぎた時間はもう戻らないけれど、これからは夫と一緒に、子供達を一生大事に育てていこうと決意が芽生えました。

過食嘔吐からの克服

——再婚後、摂食障害に対する考えはどのように変化しましたか?

私は最初、理想の家族がいたら症状っていうのは手放せるものだと思っていました。夫も「そのままでいいし、もし太ったとしても自分は逃げたりとかしないんだよ。いなくなったりしないんだよ」って伝えてくれていたんですけど、やっぱり食べるのが怖くて摂食障害は続いていました。3人目の子が生まれた後に、産後でコロナになってしまって。慣れない3人育児に、私も疲れが溜まってきていたのもあって、また摂食障害の症状が重くなってしまいました。

その時に「こんなに幸せなのに…。このままじゃいけない。このままでは家族を、こんなに愛しい家族を幸せにできない」ってハッとして、「ああ、もう変わらないと」って思いました。とにかく「この家族を私は幸せにしたい。だから必ず治す。」そんな気持ちでした。

まずは摂食障害の克服サポートに入って、1から1つずつ、どうやったら克服できるのかを、自己流ではなく正しく学んで、その通りに実践していきました。これまで30以上の病院に通ってきていたのですが、病院での治療は私には合わなかったので、長年の摂食障害を克服した方のもとについて摂食障害克服サポートを受けました。グループセッションに半年間入って、「こういうことがあったんだけど、どうしたらいいか」という悩みを送ったり、褒め日記や感謝日記をつけたりしながら、とにかく自分と向き合いました。

その中で、「自分は、ありのままで生きていて良い人間なんだ」と少しずつ思えるようになっていきました。私の人生は私が決めて良い、そこに良いも悪いもなく、どんな私も大事にしようと心から思えるようになっていって、摂食障害を手放すことが出来ました。

——摂食障害を克服された後、ご両親への思いはどう変わりましたか?

克服サポートを通じて摂食障害が治って、今は夫と一緒に「自分の子供達には必ず幸せになってもらいたい、そのために愛情をたくさん注ぎたい、家族を一番に考えたい。」と思いながら日々過ごしています。もちろんそのために、自分自身を大切にしてもいます。そんな中で、自分の心が満たされた状態で改めて両親のことを振り返ってみたんです。そうすると、「うちの親も、子どもである私に愛情を注ぎたい、幸せになってほしいという気持ちは絶対ににあったんだろうな」と、落ち着いて理解することができました。

親の不器用な部分が偶々影響してしまって、私が自分のことを嫌いになってしまった面はあったと思います。それが摂食障害の根っこになっていた。でもそれは誰が悪いということではなく、そういうことが起こってしまっただけなんだと、そんな風に客観的に見ることができるようになりました。それができるようになったのは、自分の存在価値を認めるための土台が、心の中にできてからでした。

同じ痛みを抱える人たちへ

—— 同じように悩んでいる人に向けて、伝えたいことはありますか?

私も本当に人生でどん底まで落ちていたし、ずっと死にたい人生っていうのが16年間続いていたんですけど、今はいつまででも長く生きていたいって、信じられないけど思えるようになりました。摂食障害とはずっと付き合っていかないといけないんじゃないかって思っていたこともあったけど、今はっきり言えるのは摂食障害は治る病気だということです。

やっぱり一番大事なのは、助けてと言える場所・人っていうのを見つけられるっていうこと。これが本当に鍵だと思うので、治りたい、変わりたいって思ったら、ぜひ一歩踏み出してみてほしいと思います。

あなたにおすすめの記事