異変に気づいたきっかけは、体調不良と入院の話
最初に違和感を覚えたのは、同じ職場で働いていた頃。体調を崩して休む時期があり、「体の不調かな」と思っていたところ、精神的な理由で入院していると聞きました。
その時点では、摂食障害について深く理解していたわけではありませんでした。ただ、「何か大変な状況なんだろう」という認識があったといいます。
食事に関する気遣いの中で分かった、コミュニケーションの大切さ
恋人として意識していたのは、とにかく食事を無理に勧めないこと。記念日だからといってレストランを決めつけない。外食を提案する時は、必ず相手の気持ちを聞く。そんなことを気にかけていました。
あるとき、「寿司なら食べられそう」と言われたことがありました。そこで次の機会も寿司を提案したところ、返ってきたのは、「そういうことではない。毎回同じものが食べられるということではない」という言葉。
「今回は違う」ということは分かったものの、代わりに何が食べられるのかの提案はありませんでした。
その時、「コミュニケーションが足りなかったのかもしれない」と感じました。摂食障害の症状は日によって、場面によって、気持ちによって大きく変わる。そのことを、実体験を通して知ることになりました。
「どこまで踏み込んでいいのか」が分からなかったしんどさ
食事を強要しないだけでなく、一般的には褒め言葉になりがちな「痩せた?」という言葉も使わないようにしていました。
体重や体型に意識が向いている可能性があるからこそ、その一言が症状を悪化させてしまうかもしれないと思ったからです。「触れないこと」が、相手を守ることになると考えていました。
しかし、そのように遠回しに気遣う中でも、「本当は食べたくないのに、無理しているんじゃないか」「症状を見せないようにして、一人で抱え込んでいるんじゃないか」そんな心配をずっと感じていました。目の前で症状を見たことがなかったからこそ、見えない部分への想像が膨らんでいくような気がしました。
そう思うと、デートで行きたいお店を提案することすらためらわれるようになりました。「恋愛の楽しみの一つが減っているようで、少し辛かった」という感覚もありました。
今になって振り返ると、「もっと踏み込んでよかった」とも感じます。
当時は「触れないほうがいい」と遠慮していたけれど、「一人で抱え込まないでね」「しんどい時は電話ちょうだい」「分からないことは教えてほしい」そんな言葉をかけられていたら、少し違ったかもしれません。
触れない優しさだけではなく、「一緒に抱えようとする姿勢」も必要だったのではないかと。
これだけは一人で抱えなくていいと思うこと
摂食障害という言葉に、世間の目を感じてしまう人は少なくありません。
しかし、実際には、周りの人は思っているより理解があります。とやかく言う人はほとんどいないし、一緒に考えてくれる人のほうが多いと思います。
だからこそ、今苦しんでいる当事者の方には、引け目に感じて隠したり、相談できないままでいなくていいと伝えたいです。
専門的な立場でなかったとしても、そばにいる時間を長くとること、気軽に話せる関係や時間をつくること、摂食障害というテーマを、特別なものにしすぎないこと、そんな「時間を作ってあげること」ができるんじゃないか。
ある日、「いつもはみかん1個なのに今日は3個食べちゃった」と言われたことがありました。
そのときに感じたのは、「人それぞれ、量に対する感じ方がまったく違う」ということ。だからこそ難しい。そして、だからこそコミュニケーションが必要なのだと感じています。
同じ立場の人へ伝えたいこと
摂食障害の当事者に関わる人には、しっかり向き合って、コミュニケーションをとる時間を多くとってほしいです。
踏み込まない優しさも大切。でも、それだけでは足りないこともある。
分からないことは、分からないままにせず、聞いてみる。一人で抱えなくていいと伝える。一緒に考えようとする。その積み重ねが、当事者の方が寛解に向かっていく過程を、そっと支えることにつながっていくのかもしれません。
本人(なつきさん)からのコメント
当時お付き合いしていた頃の私は、食べるタイミングや食べるものへの強いこだわりがありました。摂食障害の症状として自分の中の不安を抑えることに必死で、相手にどれだけ負担をかけているかを想像する余裕はほとんどなかったと思います。今振り返ると申し訳なさが込み上げますが、あの頃はそれほどまでに心身が追い込まれていたのだとも感じています。また、「恋人なのだから理解してほしい」という思いが強く、自分のつらさばかりに意識が向き、相手の気持ちまで十分に考えられていなかったとも思います。
それでも、その経験があったからこそ、今は人との間に境界線を引くことの大切さや、関係性の中で一人で抱え込まないことを学びました。食事の場面も含めて、人と一緒に過ごす時間を以前より穏やかに受け取れるようになったと感じています。未熟だった自分への申し訳なさや恥ずかしさは残っていますが、あの時間は、病気と向き合いながら人と関わることを少しずつ学んでいく過程でもあったのだと思います。
