完璧でいなければという重圧
—— まず、摂食障害になったきっかけについて教えてください
小さい頃から、祖父や父から「まいはよくできる子だから」と期待されて育ちました。母からも、テストで100点を取れなかった時にものすごく怒られた思い出があります。でも、中学に入ったら、部活と趣味に熱中しすぎて成績がガクンと落ちてしまったんです。当時の私は、進学校に行かないと意味がないと思っていたので、そこから必死に勉強しました。なんとか志望校に合格したんですが、高校では勉強のレベルが格段に上がったので、ついていくのに必死でした。
どんどん学校に通うのがつらくなりましたが、いわゆるスクールカーストの上位にいなきゃ恥ずかしいという思いもあって。常に周囲の目を気にしていた気がします。
—— そうした状況の中で、ご自身にはどんな変化が起きていったのですか
学校へ行くと倦怠感がひどくて微熱が出るようになったのですが、周りに置いていかれたくなくて必死で学校に通っていました。そのうち、どんどん食欲もなくなっていき、口にできるものはアイスクリームかジュースだけ。そんな生活をしていたら、みるみる体重が減っていきました。
すると、これまで厳しかった母が「大丈夫?」と優しく声をかけてくれるようになったんです。今振り返ると、気にかけてもらいたかったんだと思います。だからもっと頑張らなきゃ、つらくても絶対に休んじゃだめだって思うようになりました。当時の私は、心配されることで初めて、「大切にされている」と感じられたんです。
サポートしてくれる人たちと関わる中で見つけた夢
—— 治療につながったきっかけは何でしたか
はじめは養護教諭の先生に勧められて色々な病院で検査を受けたんですが、どこに行っても原因がわからないと言われて…。心配した母が手あたり次第に相談した結果、高校2年生の春に、大学病院の専門医に出会えました。それまでは自分に何が起こっているのかわからなくてとにかく不安だったのですが、はじめて摂食障害という病名が付いて。その時に「私は病気だったんだ、治す方法があるんだ」って、心底ホッとしたことを覚えています。
—— 病院や学校側の対応はいかがでしたか
入院が長引いて「これ以上学校を休むと卒業が危ない」となった時には、病院から学校に通えるように主治医が配慮してくれました。授業に出られないと、主治医が病室で勉強を教えてくれたこともありました。学校には行けても、教室にいるのが苦しくて授業の途中で飛び出してしまうことも多かったのですが、主治医の先生が学校にきてくれて、私の病状を学校側に説明してくれたこともあったんです。その結果、15分授業が受けられたら出席扱いにしてくれることになりました。
もちろん先生によって対応は違ったんですが、周囲の大人達みんなが私にできることを一緒に考えてくれたんです。そんな人たちを見て、自然と私も「同じように誰かを支える仕事がしたい」と思うようになりました。そんなとき、インターネットで偶然見つけた『精神保健福祉士』という文字が、私の新しい目標になりました。
過食という新たな苦悩
—— その後、体調はどのように変化していきましたか。
それからも、入退院を繰り返しました。特につらかったのは回復期の過食と、それに伴ううつ状態でしたね。
人間の身体ってよくできていて、長い間飢餓状態だった身体に栄養が入ると「食べられるうちにたくさん食べておこう」として、食べても食べてもお腹が空いちゃうんですよね。気づけば体重は20kg以上増えてしまって。「こんな醜い体では外に出られない」「こんなに太るなら死んでしまいたい」って、毎日死ぬことばかり考えていました。
—— 当時、進路についてはどのように考えられていましたか。
上京して憧れのキャンパスライフを送りたい気持ちと、病気を抱えての一人暮らしへの不安が葛藤していました。結局、高校も卒業できず、高卒認定試験を受けて地元の大学に進学することを選んだんですが、憧れていた大学生活とは全然違いました。プライドだけは高かったので、心の中では周りを見下していて友達も全然できませんでした。「こんなはずじゃなかった」って、自分から周りと距離を置くようになっていったんです。
大学入学後に食事制限が再開
—— その後はいかがでしたか
結局、通信制大学に編入することにしたんですが、この頃からまた拒食に戻ってしまいました。というより戻りたくて戻った、という方が正しいかもしれません。卒業したら、働かなくてはいけない。大人にならないといけない。でも社会で自立して生きていける自信なんてなかったんです。そんな時、高校生の時くらい痩せたら「周囲の大人たちに守ってもらえた自分」に戻れるかもしれないと考えてしまいました。
—— その期間はどのような生活でしたか
少しのお菓子とサラダしか食べない生活が5年くらい続きました。通信制大学があっていたのか順調に学校へは通えていたんですが、前に進めば進むほど怖くなって。キラキラした専門職になれないのなら、いっそのこと病気を極めていたい、少しでも命を削りたいとさえ思っていました。ネットで痩せている人の写真ばかりを眺めては、痩せるためのモチベーションを高める毎日でしたね。
死を前にして生まれた治療への決意
—— 27歳での転機について教えてください
ずっと診てもらっていた主治医の先生から、「まいちゃんのことを特別扱いして、依存させてしまったかもしれない。お願いだから食べて。じゃないともう診ることができない」と言われたんです。
その時は見捨てられたとしか思えなくて、絶望のあまり、思わず自宅の窓から飛び降りてしまいました。幸い命は助かりましたが、一歩間違えると歩けなくなっていたそうです。今思うと、当時の私は拒食の影響で脳が萎縮していたのか、頻繁にパニック発作を起こすようになっていたので、医師として苦渋の決断をされたのだと思います。
—— 入院生活ではどのような心境の変化がありましたか
「次に手術をして目が覚めなかったらどうしよう。このまま歩けなくなったらどうしよう」と毎日不安でした。HCU(高度治療室)の中では、隣に今にも死んじゃいそうな人がいて、死を身近に感じたときに急に怖くなったんです。「このまま治らなかったら、一生こうやってベッドの上にいるのか…」そう考えたとき、心の底から「もう治すしかない」と思えました。
—— それは前向きな決意だったのでしょうか
そんな綺麗な感じじゃないです。どちらかというと「病気でいることを諦めた」という方が近いですかね。それまでの私は、家族と支援者だけのすごく狭い世界で生きていました。でもそれも無くなっちゃって。だから死ぬことが唯一の解決法だと思ったのに、いざとなったら死ねなかった。なら仕方がないから生きるしかない、生きるしかないなら治すしかないって思えたんです。
支援する側になって
—— 現在のお仕事や体調について教えてください
今は、ソーシャルワーカーとしてフルタイムで働きながら、摂食障害のピアサポート活動にも携わっています。
正直、今でもストレスがかかると「食べたくないな」と思うことはあります。でも、そんなときも「あ、今自分しんどいんだな」って心のSOSとして受け止めることができるようになりました。痩せたい気持ちが完全になくなった訳ではないんですが、身体が学習しちゃったのか1食でも抜こうものなら低血糖症状を起こすんですよね。「1食くらい許してよ」って思いますけど(笑)
—— 摂食障害の経験をどう捉えていますか
今はまだ「摂食障害になってよかった」とまでは言えません。正直、失ったものもたくさんあります。それでも、摂食障害という経験や、それを通して得た夢や目標、出会いは間違いなく私の大切な宝物であり、誇りなんだと思います。
摂食障害の症状があった頃は、治ったらものすごくキラキラした素敵な日々が待っているとばかり思い込んでいました。でも、実際はキラキラした世界なんてどこにもないし、完璧な人間になんてなれなかったんです。だけど、かっこ悪くても泥臭くてもいい。必死で生き抜いている方がずっとかっこいいし、私らしいなと思えるようになりました。いつか胸を張って、「摂食障害になってよかった」と言える日がくればいいなと思っています。
同じ痛みを抱える人たちへ
—— 同じように悩んでいる人に向けて、伝えたいことはありますか?
完璧じゃない世界も案外悪くないよ、ってことですかね。私の場合は「諦める」ことが回復のきっかけでしたが、その方法はいくらでもあるし、人生意外と何とかなるなって今になって思います。
私もこの仕事に就いてようやく分かりましたが、病気があってもなくても、支援する側もされる側もみんな同じ。全然完璧なんかじゃないし、一見立派に見える人だって、みんな誰かを頼りながら生きています。だから、きっとものすごく勇気がいると思うけど、どうか周りの人や専門職を頼ってもらいたいです。つい見えなくなっちゃうけど、助けてくれる人はたくさんいます。
まいさんとお話してみたい方へ
まいさんは摂食障害ピアサポート Ally Meの登録ピアサポーターとしても活動中です。
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